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著者 渡邉雄蕉
1 美意識による日本支配
わが国で美意識について初めて論じたものは、紀貫之が執筆した古今和歌集の「仮名序」であ
る。その冒頭部分。
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ
出せるなり
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはら
げ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり
和歌の効用は、仮名序を参考にすると、次の通り。
@天地を動かす。世に出る。
A鬼神のあわれ。不幸を退ける。
B男女の仲。心が通じる。
C猛き心を和らげる。楽しい生活。
平安時代の貴族たちは、美意識による日本支配を信じていて、和歌ばかりを作っていた。最た
るものは、天皇が音頭を取って、和歌集を作らせた。
その結果、どうなったか。実利だけを追求した武士が政権を創り、公家は世の中を支配する力
を失っていった。
それでも文化を守り、伝えていく担い手の役割は果たした。もう、その道で生きるしか、なく
なった。
当然のことながら、俳句も、ここで言われている美意識を含むものである。
文人とは、学問を好み、文を愛する人をいう。これは勉学を好み、世の中を眺めて、そこで醸
成された思いを、書いて残すということである。
また、文人は美意識を大切にし、それを形に表すという意味で、風流でなければならない。
風流の表現として、俳諧、あるいは俳句というものが編み出されて、井隠の場で公開された。
井隠とは、井戸の周りに集まる隠者という意味で、民間の小さな集まりをいう。句会も同じ。
蕪村が言うように、文人は人間同士の付き合いを、究極の芸術と考える。井隠で語ることが、
俳句の絶境である。
奥深い自然界に行かなくても、自然や旅は自らの心にある。
芭蕉はベテランの弟子たちに向かって「俳諧は三尺の童にさせよ」と指導した。つまり、初心
者の句のほうが良いと言っている。
ただし、これは口頭によるもので、芭蕉自身が執筆したものではない。
意味するところは、弟子たちが小賢しい俳句テクニックを使って、うまくなろうとしているこ
とを戒めたものと考えられる。
形ばかりにとらわれると、仮名序にある精神的なエネルギーが失われ、死んだようなものにな
ってしまう。
2 詩情を生むもの
萩原朔太郎は「月の詩情」で、次のように述べている。
月とその月光が、何故にかくも昔から、多くの詩人の心を傷心せしめたらうか。
思ふにその理由は、月光の青白い光が、メランコリツクな詩的な情緒を、人の心に強く呼び起
させることにもよる。
だがもつと本質的な原因は、それが広茫極みなき天の穹窿で、無限の遠方にあるといふことで
ある。
なぜならすべて遠方にある者は、人の心に一種の憧憬と郷愁を呼び起し、それ自らが抒情詩の
センチメントになるからである。
しかもそれは、単に遠方にあるばかりではない。いつも青白い光を放散して、空の灯火の如く
煌々と輝やいてゐるのである。
そこで自分は、生物の不可思議な本能であるところの、向火性といふことに就いて考へてゐ
る。
これによると、詩情を生むのは次の要因による。
@ 遠くにあること
A 輝いていること
B 不死であること
Bは、筆者が付け加えたものだが、月は人の一生からみれば、はるかに長い時間、存在してい
る。
こういうものに、生物としての人間の心は、強く惹かれる。夜行性の動物は月の光を基準にし
て、動き回っているようだ。
人間は昼行性なので、月よりも、太陽に強く惹かれた。太陽こそ、詩情を生む原点である。太
陽は古代から信仰され、全人類にとって、神だった。
人間の生活は太陽に支えられているので、一年間の行事は太陽への願望と感謝に満ちている。
太陽について、あらゆる詩情が歌われ、書き尽くされ、舞を舞い、演劇を演じ、絵画に描か
れ、音楽が奏でられた。
詩情とは、人間の心を支配する何かである。それにより、人間は己の生を満足させるようだ。
人間の一生は
@ 近場の人間たちに左右される
A 不本意な出来事に失望する
B 短い命
ということで、詩情とは、対極にある。
見方を変えると、詩情とは、人間の不幸を、幸福に転化する「偽薬」のようなものだ。
薬効の認識によって差異がでるプラセボ効果である。
3 俳人の心境変遷
初めて詠んだ俳句は、身近なことについてのものだったのではないか。
初心者向けの俳句解説によれば、まず、毎日の生活の出来事を題材にして、俳句を詠むことを
勧めているのが、一般的。
季節を表現する季語を用いて、日常生活の中での出来事を、簡潔に表現すること、それが俳
句の第一歩である。これを生活俳句と名付ける。
生活俳句を作り続けて、五年もたつと、もう新しいものはないように感じられる。すると、
次にどうなるか。
多いのが、社会の出来事を題材にしたものに変わっていく。世の中の出来事は多いので、題材
には事欠かない。
しかし、これも五年を過ぎると、飽きてくる。なぜかというと、感性が十分満たされないよ
うな気持になるからだ。これを社会俳句と名付ける。
次は、日本文化を題材にしたものに変わる。各地の風土は様々なので、面白い題材があり、
日本文化の多様性に「大発見」する。
豊かな感性が秘められており、不思議なものに翻弄される。各地を旅する喜びにも浸れる。こ
うなると、芸術家になったかのような気分になる。
先人が書いた様々な文化論にも通じるようになる。これを文化俳句と名付ける。しかし、これ
も、何となく物足りない心境になる。
最終的には、人間の内面を詠むことになる。なぜかというと、先人の詩歌を読むうちに、そ
れが一番高尚なものに思えてくるからだ。これを精神俳句と名付ける。
したがって、俳人の歩む道をいうと、次のようになる。
@ 生活俳句
A 社会俳句
B 文化俳句
C 精神俳句
これで満足した心境に至るのか。それでも、疑問が残る。これでよいのかと。
人生の最終段階に至っても、満足な心境にならない。それを解決するためには、俳句を始め
た動機を、もう一度、考えてみることであろう。
俳句にはメッセージが込められる。その贈り先は、「人間を観ているもの」である。その存
在に従うとき、満足感が得られる。
芭蕉や蕪村は、人間は観られている存在であると認識した。
このような発想の転換を受け入れると、俳句は詠むものではなく、差し上げるもの、あるいは
分かち合うものになる。
「人間を観ているもの」とは何か。人間を生かしてくれている過去から続く自然節理で、時間
軸を流れていくものだ。
それを、古代ギリシアのプラトンは、善のイデア(理想、理念の形・姿)と呼んだ。真に実在
しているのは、イデアである。
私たちが見ているものは、不完全な仮象であり、イデアの模造という。そうすると文芸作品は
模造の模倣となり、哲学からは程遠いものと、プラトンは蔑んでいた。
ところで、最新の宇宙論によると、私たちが見ている宇宙は、五パーセントで、九十五パーセ
ントは見えていないと考えられている。プラトンのイデア説は、真実かもしれない。
さらに、量子もつれという物理現象によると、二次元世界という真実を、三次元世界の仮象と
して、観測しているとも推測できる。
この世界は、人間には理解できない摩訶不思議なものなのだ。
こうした科学の理解とは別に、芭蕉や蕪村は、イデアへの到達を、哲学的に表現したと思われ
る。
4 詩文の芸術
散文とは、小説や評論のように、特定の韻律にとらわれず、書かれた文章のことをいう。
散文で書かれた詩の場合、散文詩という。一般的に、散文的といえば、「味気ない、情緒がな
い」ことを意味している。散文の散とは、制約を受けないという意味。
散文の反対は、韻文という。韻文は、聴覚に定まった形象を感覚させる韻律によって書き表
される文章のこと。散文の反意語である。
多くの場合、詩に使われるので、本論では、韻文のことを、詩文と表現する。俳句で使うの
は、散文ではなく、詩文である。
参考までに、韻律の要素をいうと、言語、形式、押韻、文化的背景。ただ、日本語の場合、
押韻はほとんど意味を持たない。
俳句は詩文なので、形式に束縛される。
形式は次の通り。
@五七五の「韻律」で詠まれる定型詩。
A歴史的経緯から、「季語」を入れる。
B句のどこか一か所に、「切れ」をいれる。
C余韻を残す。余情を表す。
D詩情を表現する。
E言葉の本意を重視する。
@からBまでは、俳句という形式を言ったもので、この形であれば、俳句である。
ただし、基本を述べたものなので、形式から外れていても、詩情があれば、俳句のようなも
のといえる。
俳句は詩の一つの形式だが、詩とするためには、CDを満たす必要がある。なお、余韻、余
情、詩情は同じような意味で使われることも多い。
俳句の言葉は詩文であり、国語辞典の意味だけで使うわけではない。さらに深く、多義的、
あるいは特別な意味を含ませることもある。
Eは、芸術的に批評を加えるとき、詩文で使う言葉の「本意」に、特別な注意を払う必要が
あることを述べたもの。
これは、言葉が指し示す意味ではなく、ものの本質についての表現。あるいは、情趣といった
もの。
さらにいえば、言葉が持つ芸術的な本性に関すること。
例えば、天皇が外出することを行幸という。天皇に使っていれば、文字通りの意味だが、別
の表現も可能である。
たとえば、うちの愛犬ポチが行幸するといった場合、どのような意味を含ませたことになるの
か。
うちでは、ポチは天皇のように偉い存在で、大切にされているという意味になる。行幸の本意
は、出かけるということではなく、偉さを秘めたものなのだ。
散文で考えると、ポチの行幸という表現は、日本語として間違った使い方になる。しかし、
詩文としては、ポチの立場を適切に表現したものになっている。
5 心象俳句
一般的に、現実の社会だけを詠むと、子規や虚子によれば、写生ということになる。
人間が見ているのは、脳、すなわち心に映るものである。それを写生と呼ぶが、写真的な意
味で、写生と表現しているとすれば、誤解であろう。
人間の心に映ることを詠む俳句を、ここでは心象俳句と名付ける。
@心象俳句
(写景心緒・しゃけいしんしょ)
A心象俳句
(寄物陳志・きぶつちんし)
@は、景色を心に映すことにより、心が動かされるというもの。
心に映るものは、自分が見たいものを見るという仮想世界である。
Aは、物に寄せて、気持ちを述べるということ。
物を見て、連想するということだが、自分の感性を仮想世界に投影することである。自分の願
望や主張のようなものを、想像するかもしれない。
心象俳句が描くものは、現実の社会を見ていながら、実際は自分の心に映る仮想世界に浸る
こと。これは現実と仮想が入り混じったものということになる。
詩文で創作された俳句はすべて仮想世界である。俳句で現実の社会を詠むことは、本意から
外れている。
現実社会は題材であって、俳句は作者の独自の世界に浸るものである。作者の数だけ、多様
な仮想社会が生まれる。俳句は、十七文字の、ひとつの小説なのだ。
最近は、散文で創作された俳句という意味で、散文俳句という主張もあるようだ。しかし、
詩文であることを避けるようなら、俳句といわないで、自由詩ということになるだろう。
もし、仮想世界でないとすれば、それは散文で書かれた川柳である。
6 転がる俳句世界
句会や雑誌などで発表される俳句は公開を前提にしているものなので、多くの人たちの感性
を敲く。
その時の、俳句の楽しみ方について、考察してみる。
@ 感想あるいは鑑賞
感想は、俳句を読んでの印象であり、自由である。何の予備知識もいらない。ただ思うとこ
ろを言うだけである。
ただし、作者に対して、何らかの根拠を示すのがマナーというもの。
鑑賞は楽しさや喜びを込めた感想である。そのためには、俳句を理解するための、何らかの予
備知識が必要だろう。
共感した根拠を丁寧に示すことが求められる。
A 意見と添削
俳句を、さらに良くするための私見を述べることが、意見である。意見を有意義なものとす
るためには、作者の真意を聴いた方がよろしいと思われる。
作者の意向を無視して、一方的な見方を押しつけることを、添削という。
添削は、別の言葉に置き換える、あるいは言葉の並びを変えるといったことだが、俳句の場
合、単語一つで、全く異なるものに変わってしまう。
俳句や短歌は短いので、添削できる。原案を変えて示すことは簡単だ。
だが、余興のようなもので、作者の感性を無視してしまうことから、芸術を貶める行為であ
り、意味のない愚行に思える。
B 批評ないし評論
批評の力量は、作品の中から、美を発見する洞察力である。美に関する知識や論理が不可欠
となる。
批評は俳句を相手にするものなので、作者を知らなくてもかまわない。美意識の基準をもと
に、作品に対して距離感を置けるかどうかが、要になる。
俳句批評のテーブルは、作者でも、批評家でもなく、理念や理想という高みに置くことだが、
芸術全般に関する理論が前提となる。
また、批評の中に、好き嫌いが見えてしまうのは何とも情けない。
私たちの心は常に詩情という偽薬を求めている。のめり込み、自分を見失う危険があること
も、意識しておくことだ。
C 誹謗・中傷
すべての俳句に対して、良くも悪くも、いうことができる。
誹謗中傷とは、悪いことだけをいうことである。誉めようとしない。狭量な感性がなせるこ
とである。
D 俳句礼賛
同じ流派の人たちは根源的な批評を避けるようになるかもしれない。その行き着く先は、幕
末から明治初年の状態になる。それは子規が強く批判したものである。
美意識を基にした批評は、健全な文芸活動を維持するためには必要である。だが、評論能力
は、作家能力とは別物である。
作家と評論家は、表裏一体の関係で、両者は切磋琢磨し、俳句芸術を向上させる。句会で、
そのような議論が和やかにできることが望ましい。
そのためには、敬意をもって、句を礼賛することに尽きる。
それは、姑蘇郊外、寒山寺の夜半の鐘の音を、客船で静かに聴く心境でもある。
7 『善の研究』からの俳句
『善の研究』とは、西田幾多郎が1911年に出版した哲学書。もともとは、『純粋経験と実
在』だったが、出版社から拒否され、改名した。
わが国最初の哲学書といわれているが、一般受けする書名としたものの、内容は超難解。一ペ
ージ読めれば、立派というほどのもの。
その中に、「純粋経験」という言葉がある。その意味は、「反省を含まず、主観・客観が区別
される以前の直接経験」となっている。
その直接経験を具体的にいうと、初日の出を見に行って、太陽が上がって感激したときの心境
のようなもの。
すなわち、我を忘れるほどの喜怒哀楽に立ち入った時、自分の世界を覆ってしまう感情に埋没
した状態である。
ときには、自分の感情は外に出てしまって、自己は消えて対象物と一体となる、あるいは、空
白になってしまうような経験である。
それを主観と客観が区別される前の状態と定義した。
俳句を詠むときの感性は、これを指していると考えられる。
西田が言う「純粋経験」と、通常の経験とは何が違うのか。
通常の経験は、その人の知性によって、純粋さを失い、常に汚されているということだ。しか
も、これに気が付かないことが、最大の問題である。
本人はまっさらのつもりでも、無意識のうちに、論理的思考になってしまう。それが近代的思
考を身につけた人の宿命である。そうなるように、教養を深めて、努力してきたのだ。
ところが、詩文の世界では、それが邪魔になる。論理的思考よりも、感情の原初的表現に感動
するようだ。
『善の研究』から見えてくる、俳句とは何か、について述べる。
俳句が詠む対象物であるが、それは実在しているものである。しかし、実在とは何か、それが
重要になる。
西田によれば、実在とは、心である。言い換えると、意識現象である。
その心は何をやっているのか。それは全体と個々との統合的調和である。
たとえば、平等の中に不平等を観て、不平等の中に平等を観るのが、心である。自然界を観る
ときも同じ。
俳句を詠むとき、見る人と、観られるものというように分けて考えられがちだが、これは実在
を見誤っている。
実在をいうなら、見る人と観られるものは一体化していなければならない。それが真実なので
ある。
善の研究を平易にいうと、人間の行為を倫理学的に価値付けするものである。
人間は大自然の美を直感的に理解できるようにつくられている。
同様に、人間の行為も、その美を直感的に理解できるようにつくられているはずだが、実際は
そうでもない。
その障害として考えられるものが、通俗的な通常経験ということになる。
人間が創った知識や社会制度が、精神的堕落を容認し、美意識を歪め、善なるものから逸脱し
てしまうことになる。
ここまで書いてきて、私は、ジャン・ジャック・ルソーの学問芸術論を思い出した。
「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、あるいは腐敗させたか」という課題に対する論
文である。
無名だったルソーは懸賞論文に当選したかったので、文明を道徳的に批判するという手法をと
った。これが決め手になって、受賞し、有名人となった。
ルソーは、本来善良だった人間は、精神的堕落を容認する社会制度によって、邪悪になってし
まったと主張した。
日本では、俳句のなかに、道徳精神を織り込むことに成功した。それが芭蕉や蕪村である。
そして、自然と人間が一体化する行為が俳句となり、善なるものを表現した。
閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
蕪村
8 俳句の美意識
子規が使い始めた俳句における「写生」という言葉は画家の中村不折との付き合いから生まれ
た。
もともと、美術における写生のイメージがあったと考えられる。
子規自身の文章によると、「写生といふことは、画を描くにも、記事文を書く上にも極めて必
要なもので、此の手段によらなくては、画も記事文も全く出来ないといふてもよい位である」
と述べている。
しかし、ここで抜け落ちたものがあった。本当は、言うまでもなく、「美意識をもって写生す
ること」だった。
当たり前のことだったが、説明不足ないし表現不足になった。
さらに、「空想と写実と合同して、一種非空非実の大文学を創出せざるべからず、空想に偏僻
し、写実に拘泥するものはもとより、その至る者に非るなり」とも書いている。
空想と写実を合同して、俳句という大文学を創出すべきだという。空想のみ、写実のみに、こ
だわるのは駄目と否定している。
これは言葉を変えて言うと、詩情と論理の合体の下に、俳句は詠むべきだということになる。
空想とは、日々私たちが感じる詩情であり、写実とは、私たちの生きている世界を形作る論理
を言っている。
論理を具体的にいえば、法令や慣習や自然法則や、人間集団における取り決めのようなもの
だ。
それらがひとり一人に対して、拘束したり、不自由にしたり、悪い感情を持つように働くこと
がある。
そうした個人的感情を、詩情として昇華しようというのが、俳句である。そのとき、不可欠な
ものが美意識だ。
子規が文学における美の標準を意識するようになった経緯は次の通り。
「目的は哲学なり、詩歌は娯楽なりと揚言せしが、陰には哲学と詩歌の間には何か関係あれか
しと常に思へり。
其後漸く審美学なるを知り、詩歌書画の如き美術を、哲学的に議論するものなることを知りし
より、顔色欣々として雀躍するの思ひを生じ、遂に余が目的を此方にむけり」
子規は従軍記者として中国へ渡った時、現地で森鴎外と面会し、親しくなった。
その後、鴎外は子規の句会にも招かれている。鴎外も、子規のことを高く評価している。
鴎外は審美学をわが国に紹介した人で、子規は鴎外の思考に強く惹かれていた。
そんなこともあり、「美の標準」などという言葉を連発して、俳句を説明した。
明治になって、鴎外が造った審美学という言葉は、現在は「美学」となっている。これは
@ 美とは何か
A 何が美しいのか
B 何のために美はあるのか
といったことを考える哲学である。
日本の美意識の概念として。
@神楽、雅楽、能楽、歌舞、音曲
A明き浄き直き心
B余情、崇高、畏怖
Cをかし、あはれ
D幽玄、わび、さび、風雅
貫之は歌の力を信じ、西行は旅人であることに救済と実在を見出し、世阿弥は「秘すれば花」
と卓見し、他の先人も美意識をもって、見えない何ものかに、敬意を表したのである。
(了) |
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