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著者 渡邉雄蕉
1 芭蕉の句の再吟味
松尾芭蕉は、俳諧、あるいは俳句を、芸術に昇華した人物である。なぜ、芭蕉は芸術の域に
達したのか、それを考えてみたい。
俳句として、最も有名な句。
古池や蛙飛び込む水の音
一般的な解釈。草庵の傍らに古池があり、蛙が池に飛び込む音が聞こえた。このとき、芭蕉
は池の縁にいたのか。
なぜ、これが俳句の代表作になったのだろうか。和歌の世界では、蛙は鳴き声がうるさいと
いうのが常識。それを言わずに、飛び込む音にしたのが、目新しい。それが傑作になった理由
のようだ。
最近になって、長谷川櫂は著作の中で、一般的解釈に疑問を投げかけ、蛙が池に飛び込む音
を聞いて、古池のイメージが湧いてきたことを詠んだものとしている。
要するに、古池は実景ではなく、芭蕉の想像、すなわち心象風景あるいは仮想世界だと指摘し
た。
そもそも、蛙が飛び込んだのは芭蕉庵の庭にあった山吹のそばの手水鉢であろう。芭蕉は部
屋にいて、蛙が飛び込む音を聞いた。
だから、俳句の初案は「山吹や蛙飛んだる水の音」であった。これは実景そのままで、おもし
ろくも何ともない。山吹には違和感がある。
芭蕉は常に推敲を重ねる人で、なかなか決められず、いつまでも考えている。蛙「飛んだる」
を、「飛び込む」に変えるなど、きめ細かい。
このころから芭蕉は俳句に含める詩情として、諧謔や軽みといった軽薄な気持ちよりも、精
神性を高めたいと考えていたようだ。
おもしろさよりも、日本人の心象に目覚めた。芭蕉は西行や宗祇といった先人に敬意を持って
いた。
よく考えてみると、蛙の鳴き声をやめて、飛び込む音にしたのは工夫のひとつだが、その程
度ではどうにも芸術性に欠けると思ったのであろう。
芭蕉の生涯のテーマは聖人の精神性を表現することである。山吹では小金持ちにみえてしま
う。蛙との相性もはっきりしない。それよりも、役に立たなくなった古池の方が苦行者、漂泊
者、清貧な隠者のイメージに合うと考えた。
古池は実景ではなく、芭蕉の想像上のもの。聖人の側には誰からもかえりみられない古池が
あるのがふさわしい。こうして、芭蕉は実景よりも、創作を重んじるようになった。
つまり、主観的描写を取り入れたのだ。こうすることで、この俳句は芸術品になった。実景だ
けで優れた作品は生まれない。良い作品を生み出すためには作者の想像力、つまり創作力が不
可欠である。
2 心象俳句の検証
心象風景を詠み込んだ句を、ここでは心象俳句と名づける。
ところで、「古池や」が心象風景なのかどうか、そこを検証してみる。
本句の成立ははっきりしていないが、1682年から1686年の間と考えられている。
芭蕉は1686年以降「古池や」という表現をどの作品に使用したのか、そこを探っていきた
い。制作年と17句をならべる。
第1句 1686年
名月や池をめぐりて夜もすがら
第2句 1688年
春の夜や籠り人ゆかし堂の隅
第3句 1688年
蛸壺やはかなき夢を夏の月
第4句 1689年
行く春や鳥啼き魚の目は涙
第5句 1689年
夏草や兵どもが夢の跡
第6句 1689年
閑さや岩にしみ入る蝉の声
第7句 1689年
象潟や雨に西施がねぶの花
第8句 1689年
荒海や佐渡に横たふ天の河
第9句 1689年
早稲の香や分け入る右は有磯海
第10句 1691年
衰や歯に喰あてし海苔の砂
第11句 1691年
不精さやかき起されし春の雨
第12句 1691年
五月雨や色紙へぎたる壁の跡
第13句 1692年
鶯や餅に糞する縁のさき
第14句 1694年
春雨や蜂の巣つたふ屋ねの漏
第15句 1694年
六月や峯に雲置くあらし山
第16句 1694年
清滝や波にちり込青松葉
第17句 1694年
此道や行人なしに秋の暮
第1句から第9句まではすべて心象風景である。ただ第7句は説明が必要だ。象潟は地名だ
から、心象風景ではない。
初案は「象潟の雨や西施がねぶの花」だった。それを後に変えたのだ。
したがって、象潟の雨が心象風景ということになる。象潟は陰鬱な風景だったという。その後
の地震で隆起したため、芭蕉が見た風景は見ることができない。
西施は中国春秋時代に、越王勾践が呉王夫差に献じた美女の名前。胸を病み、憂鬱な表情を
していたので、芭蕉は象潟を西施に見立てた。
それは芭蕉にとって実景だった。ただ、晴れていたのでは台無しだ。だから、雨が降っていな
ければならなかった。
ついでに、第8句も説明しておこう。日本海は荒波のことも多いので、それは実景であっ
て、芭蕉の心象風景ではないという反論もあるだろう。だが、これは心象風景であることは間
違いない。
芭蕉が佐渡の上にある天の河を眺めたとき、海が静かであるか、荒れているか、それは関係な
い。天の河の下に広がる海は荒れていなければならない。
その理由。天の河といえば、七夕。男女の出会いは一年に一回。会えない理由は荒れた河が
ふたりを隔てているからだ。
さらにひとつの理由。古来、佐渡は島流しの島でもある。簡単には渡れないから、島流しの場
所になっている。静かな海ではイメージが損なわれてしまう。
ここでいう心象風景とは、詩情を生むためには欠かせない美意識を言う。
したがって、実景の場合もある。実景が最適なものであれば、そのまま詠めばよいだけだ。
第1句について述べると、「名月」「池をめぐる」「夜もすがら」は、美意識を生むための、
仕掛けになっている。この関係を創作できたのは芭蕉の文才である。芸術意識である。
第2句も同様だ。「春の夜」「籠り人」「堂の隅」は強く結びついている。「夏の夜」ではよ
ろしくない。
そういう美意識を詠むことが俳句である。俳人は実景で詩情を詠むのではない。実景に自分の
想像力、言い換えると、創作力を投影できるかどうか、なのである。
また、第10句から第13句までは明らかに軽み、要するに滑稽さや面白さを出そうとして
いる。
しかし、第14句から第17句では再び心象風景に帰っているとみている。
俳聖と呼ばれる芭蕉でさえも、軽みに惹かれてしまうのはなぜか。
もともと俳句には世をすねた人たちに好まれる批評を受け入れる素地があったので、原点回帰
というか、常に滑稽さや諧謔性の世界に引っ張り込む力が働いている。
しかも、多くの方の共感を誘うので、ますます捨てがたいものになる。一度味わった俳諧の味
は忘れられないということだ。詩情をなくし、強い批評を目的として、この分野に特化したの
が川柳である。
では、第10句について説明しておこう。本句は海苔に含まれていた砂を噛んでしまったと
き、若いときなら何でもないが、おそらく歯が欠けてしまったということであろう。それを老
化してきた身の風情として表したと思われる。
別に嘆いているわけではないが、老化はそんなところから始まると詠んだ。老人になれば、昔
の人は歯が抜けるのが当たり前だったので、それを老化の兆しとしてもおもしろくない。
ただ、老化を思い知る原因として、海苔の砂という小さな邪魔者を当て嵌めたところが、優
れた点といえる。
つまり、通常なら気にもとめない存在が、重大なことを告げるということだ。そこに軽みがあ
るということであろう。
芭蕉の考え方は揺らいでいるようだ。心象風景に重点を置くと、おもしろくないとして、こ
れを嫌う門人が出てきたのではないか。ユーモアがあった方が、知的な遊びであるように思え
るのであろう。
芭蕉といえども、門人の好みに合わせる必要性があったのかもしれない。芭蕉は門人からの謝
礼金で暮らしているのだから、門人たちの意向を無視できない。
このあたりが俳人として苦悩するところだ。己ひとり高みにとどまるべきか。あるいは皆の
共感を呼ぶ軽みに下げるのか。思案のしどころである。俳句の世界はいつも大きく揺れ動いて
きた。
これを作家の信条として解決しない限り、俳句が芸術として独り立ちすることはできない。
単なる遊びではないことを、どこまで貫けるのか。
3 俳句における芸術
芸術とは何かについて、考えておきたい。定義を言えば、鑑賞の対象となるものを、人為的
に創造する技術である。
空間芸術として、工芸、書道、絵画、彫刻、建築。
時間芸術として、音楽、文芸。総合芸術としては、オペラ、舞踊、演劇、映画など。
このうち、絵画、写真、彫刻、書道、音楽、文芸について、考えてみる。
一流の芸術品として認められているものが表現しているのは、現実の世界ではない。仮想世界
である。
たとえば、絵画は画家が絵の中に独自の世界を描いたものといえる。画家は描きたいものを
入れ、描きたくないものを入れない。絵画は画家が作り出した仮想の世界である。
事実のみを映す写真だが、芸術写真は撮影者が撮りたいものだけを写し、不要なものを除く。
それは大変な撮影技術を要し、撮影するまでの苦心がある。
彫刻も同じ。創られたものは彫刻家が必要とみなしたもので、気に入らないものは彫らな
い。
書道は、実用的な意味を伝えるための文字の羅列ではない。大きさや形や並べ方によって、余
情としてのメッセージを伝えようとするもの。
音楽は自然にはない音を、楽器を使って人工的に巧妙に作り出す。前衛的に言うと、音と音
の間、無音の世界に音楽の神髄があるとされる。それらはすべて非日常的な世界を表現してい
る。
文芸は、作家が独自の世界を読者に示したもの。歴史に題材を取った小説でも、自分の小説
に必要な歴史材料をつまみ食いしている。
以上のことから、芸術とは、仮想の世界を示したものである。
人間は現実の世界に住んでいるのに、仮想の世界に憧れや美意識を感じるものらしい。美につ
いていえば、自然美ではなく、人工的な美を、芸術と考える。
では、俳句に芸術の生命を吹き込むためにはどうすればよいのか。
芭蕉が、「古池や」と詠んだのは、蛙が水に飛び込んだ音を聞いて、古池という仮想世界に浸
ったということ。これによって、俳句は芸術になった。
美意識を刺激し、高尚な精神世界を呼び起こすものでなければならない。芭蕉は清貧に親しむ
聖人の世界を重視したものと考えられる。
芭蕉の前記17句のうち、最も哲学的だと思うのは「閑さや岩にしみ入る蝉の声」である。
この句の実景は木々にとまっている蝉の声がうるさいので、「姦しや岩にはじける蝉の声」で
あろう。
芭蕉の初案は「山寺や石にしみつく蝉の声」であった。次に、「閑さや石にしみつく蝉の
声」になった。最後に、現在の形になった。
推敲を重ねることで、哲学的になった。蝉の声がうるさいのに、なぜ閑さなのか。
閑さは芭蕉が到達した詩情である。蝉の声、それは自然界の音である。風の音や水の流れの
音と同じ。そういう自然界の音以外の声、特に人の声がしないということであろう。
芭蕉は希求してやまない聖人世界に一歩踏み込んだような気持ちになった。
その世界では蝉の声が岩にしみこむ。岩に跳ね返されるのは人の声である。それが自然界の
論理、あるいは真理である。
前述した十七句には、詩情と論理の融合がみられる。
芭蕉は自然界の論理に身を委ねることで、詩情があふれ出て、幸福感に浸った。そういうすば
らしい世界があることを表現した。
それが俳句芸術の悟りであろうか。
4 蕪村の芸術意識
江戸時代の俳人は何人いたのだろうか。何のデータもないので、よくわからないが、約二百
七十年間という長い期間なので、百万人はいたのではないか。多くの俳人が俳句を作って残し
ている。
その中で、芸術と呼べるものを作ったのは、二人。松尾芭蕉と与謝蕪村である。何が他の人
と違うのか、そのあたりを考えてみる。
芭蕉については、前述したように、旅人に成りきった。実際は、江戸に定住していたが、旅
に出ていることも多く、旅先で亡くなった。
本人も人生は旅であると論じ、旅人として一生を終えた。多くの作品は旅の中から、創作され
た。
芭蕉は人生そのものを、俳句と同じように営んだ。あるいは、そのように脚色したともいえ
る。
もう一人の俳人、蕪村はどのようにして芸術意識に到達したのか。
蕪村も、四十歳前は、ほとんど旅に出て、日本各地を回ったようだが、正確にはわからない。
四十歳を過ぎてからは、京都に定住して、俳諧と画家を仕事とした。蕪村は四十五歳で結婚
し、一人娘がいる。
蕪村の多くの作品は、旅に出て創作したものではない。古典を基本的な知識として活用し、
芸術作品を生み出した。
若い頃の旅に出た経験も、役だったに違いない。蕪村は文学作品として、俳諧を残した。
蕪村は、俳諧について、離俗論と呼ばれることを述べた。現代風に表記すると、それは次の
ようなことである。
俳諧の要点をいうと、分かりやすい俗語を用いるが、その精神は俗世を離れることを尊ぶ。
精神は俗世を離れていても、実際の生活は俗世に生きることに価値がある。
以下、俳諧のことを、俳句と表記する。俳句は、簡単な言葉でいうことが第一である。難し
い表現はできるだけ避ける。易しいほうが、多くの人の理解が得られるので、ということであ
る。
易しい言葉で表現する対象は、俗世を離れて、高尚な精神を求めるべきものだが、実際の生
活は、世俗的に生きなければならない。世を捨てたり、出家したり、孤独に生きるようなこと
ではいけない。
また、世俗的なことにのめり込んだり、振り回されてはいけない。つまり、立派な人物になり
なさいということ。
蕪村が離俗論を述べたのは、五十三歳のころで、明和五年のこと。
画家でもあった蕪村は、古典的な知識が絵画には必要だと考えた。俳句も、同じという。それ
は何のためなのか。
俳句は、日本語を知っている人なら、誰でも作れる。しかし、良いものとはどういうもの
か、ということについての、芸術的な知識が必要なのだ。
意味が通じればよいというわけでもない。芸術とするためには、良いものと、悪いものを選別
するための、教養と判断力が必要になる。
たとえば、選句をするときに、同じような経験をしたことで、共感できる、理解できる、親
しめるといった理由を、良いものと考えてはいけない。
斬新だから、目新しいから、新鮮だからといった、形だけにとらわれてもいけない。
参考までに、蕪村の芸術作品と思われるものを紹介する。
@蕪村五十三歳
月天心(つきてんしん)貧しき町を通りけり
(注)月天心とは、天頂にある月のこと。
A 蕪村五十九歳
門(もん)を出(いづ)れば我も行人(いくひと)秋のくれ
B蕪村六十二歳
さればこそ賢者は富まず敗荷(やれはちす)
(注)敗荷とは破れた蓮のこと。庭にある蓮が破れたままで、荒れ果てた状態をいう。
象徴的に言えば、この三句で、蕪村の俳句は芸術に昇華したと判断される。さらに、辞世の
句。
C蕪村六十八歳
白梅に明ける夜ばかりとなりにけり
ついに、蕪村は、自身が白梅になったように感じ、自然界の一部に溶け込んでしまった。
それは芭蕉が山寺で自然界に溶け込んだのと同じ心境に到達したものである。
蕪村六十一歳の時、「芭蕉去りてそののちいまだ年くれず」と詠んで、誰も芭蕉に及ばない
と慨嘆したが、世を去る時、蕪村は師と並んだのである。
最も注目すべきは、Bで、賢者は富まずと詠んで、人間社会のあるべき姿、人間が目指すも
の、人間の未来について、想いを詠み、離俗という心境に達した。
だからといって、俳人は直接社会を変えようとはしない。文人として生きるということだ。
芸術意識を表現することで、より多くの人々の社会観に影響を与えれば、世の中は自然に良い
方向に治まる。それが俳句芸術の効用であろう。
5 子規の革命
明治になって、俳句について、正岡子規は写生といい、高浜虚子は客観的写生であると言っ
た。写生は実景をそのまま写すということで、写真と同じようなもの。
さらに、客観的写生といえば、皆が同じことを詠むことになる。それでは類似した俳句ばかり
になり、新鮮みもなくなる。
本当にそうだったのか、ふたりの代表句について考えてみる。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。
これは子規の文章によると、実景のようなので、写生ということになる。
子規は法隆寺の茶店で詠んだとしているが、それが事実だとしても、私は仮想世界とみるべき
だと考えている。法隆寺の鐘というのが、重大な意味を持っている。
法隆寺については建立時期、建立者、建立目的などが不明で、謎となっている。
諸説ある中で、私は怨霊鎮魂のための寺と考えている。日本人が最も恐れる祟りを追い払うこ
とを目的にしている。
その効力で存続してきたわけで、いわば、日陰の存在である。日本開闢以来、明治に至るま
で、不治の病は怨霊の祟りとされていた時代に必要とされた。
逆に考えると、怨霊鎮魂なので、建立時期、建立者、建立目的などの記録を一切正史に記載
しないのである。
これに対し、官立である東大寺は聖武天皇をはじめ、歴代の権力者が国家安泰を願った。陽
の当たる寺といえる。
子規が宿泊したのは東大寺の近く。何といっても、日本最大の大仏が鎮座しているのだから、
本来であれば、「柿食えば鐘が鳴るなり東大寺」であろう。
それなのに、古い謎を秘めた法隆寺を詠み込んだ点に、もっと注意を払わなければならな
い。なぜ、奈良路ではなく、大和路だったのか。
不治の病気にかかった子規が、東大寺の大仏ではなく、法隆寺の鐘に望んだものは何か、それ
を考える必要がある。
子規が清国からの帰りの船中で喀血したのが、明治二十八年五月十七日。
その後、十月二十六日、夏目漱石から借金して奈良に行き、法隆寺の茶店に立ち寄った。
すでに病状はかなり悪化しており、再び奈良にこられるとは思っていなかったはずだ。十月三
十一日、子規は東京へ帰り、病床生活が続くことになる。
子規は何かに突き動かされるように奈良に行った。その思いは法隆寺という寺の性格に由来
することは当たり前である。
子規が法隆寺について、どのような認識を持っていたのか、分からない。時を告げるだけの鐘
では詩情を湧かすことはない。
病が癒えることを期待して、法隆寺の鐘の音を全身で受け止めたのではないか。
柿は子規の好物ということだ。柿は体力の強化、維持に必要な食べ物であった。病に耐えて
いくには栄養補給が必須である。
栄養の源とされた柿を食べると、法隆寺の鐘が反応して、鳴るというのだから、これは寺の霊
験を期待したものに他ならない。
子規は法隆寺の法力によって、再び元気な体を取り戻したいと、心の隅で望んだのである。
だが、そんなことはあり得ないことなので、子規が記録として残すことはない。したがって、
私の推論は何の証拠もない。
しかし、人間は死に追いつめられたとき、神仏に最後の願いを賭ける。多くの人が、そのよう
な心境になるとすれば、俳人は、それを詠む。
近代的な高等教育を受け、写生を主張した子規なので、私の論じたことについて、そんなこ
とはないと否定するであろう。
子規は、芭蕉の「古池や」の句に対しても、蛙が飛び込んだ、ただ、それだけだと言ってい
る。
しかし、「柿食えば」は、仏教の法力という仮想世界を詠んだもので、法隆寺の効験により、
病が治ることを期待した芸術品である。
次に、虚子の代表作「春風や闘志いだきて丘に立つ」も、春風、闘志、丘のいずれかが、心
象風景であろう。
おそらく、「春風」というところが、創作であると考えている。とはいうものの、表向き、写
生の句を詠んでいると主張した。
この影響は現在まで続いており、写生という方法が基本になっている。写生技法を身につけ
ると、身の回りのことに関心をもった句ばかりとなる。
現実を題材として、仮想の世界を思い描くことができなくなる。
俳句作家の思考から柔軟性が失われているように思える。こうして、俳句芸術は衰退した。
6 心を写生する
明治三十一年、子規は「歌よみに与ふる書」という新聞記事で、「貫之は下手な歌よみにて
古今集はくだらぬ集に有之候」と指摘し、次の三点を説いた。
@万葉集が基本
A写生によること
B用語を自由にする
では、紀貫之の代表歌で、子規の批評を考えてみよう。くだらないとされた歌。
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ
意味は、袖が水に浸かってすくった水が凍り、立春の今日の春風が解かす、というもの。
これは貫之が創りあげた仮想世界である。歌の技法を熟知していなければ詠めない。高度な知
識と創作力が要求される。素人が詠めるものではない。
この歌は第二芸術ではない。歌に命をかけ、出世の手段とした時代に生まれた芸術といえる。
次に、子規の歌をみてみる。
人丸ののちの歌よみは誰かあらむ征夷大将軍みなもとの実朝
人丸は柿本人麻呂のこと。人麻呂のあとの歌人は源実朝であると断言した歌である。これは
和歌なのだろうか。
子規によれば、本を読んでいて、心に浮かんだことを写生したものだと説明している。また、
評者によれば、短歌革命の気負いがこもるとしている。
では、子規に大歌人と絶賛された実朝の歌をみてみる。
山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心わがあらめやも
意味は、山が裂け、海が浅くなる世であっても、私は大君に二心をだくようなことは決して
ありませんというもの。
後鳥羽院からの手紙をみた後に詠んだものとされる。
ここに仮想世界はない。現実の世界における決意表明みたいなものだ。実朝の歌は子規のいう
写生であり、現実の世界を言葉で表現したものである。
7 消えた芸術意識
写生を歌の基本とすると、歌よみの専門家だけでなく、いわゆる素人も歌を詠むことができ
る。
万葉集には防人に徴用された地方出身者の切実な歌が載せられている。歌よみの専門家ではな
い人たちの心の叫びである。
子規は万葉集を基本とすることにより、多くの人たちに歌詠みの機会を与えたといえる。こ
うして、歌を詠む人は増えたが、残念なことに芸術性が失われた。
歌よみの専門家も、写生派が多くなり、歌の芸術精神への関心が薄れた。文芸批評家も心の動
きが詠み込まれていれば良いというようになった。
こうして、第二芸術論に指摘されるような事態になった。俳句や短歌から芸術性が失われた
のは「子規の革命」を錯覚したことが原因であったと考えられる。
子規が和歌や俳句に革命が必要だと考えた理由について述べておきたい。詩歌の世界には師
匠という人がいて、言葉の使い方について、様々な制限を加えていた。
師匠は権威と地位を利用して弟子を従わせ、言葉遣いを専売特許か何かのように、振り回して
いた。
言葉の使い方に制限を加えるようなやり方を認めると、型にはまったものばかりとなり、い
ずれ行き詰まることになる。それが子規以前の状態だった。
結果として、詩歌の世界から、活力が失われ、謎解きのような俳句がまかり通っていた。
それを打破するために、子規は言葉の使い方を自由にした。事実のみを詠むことで、言葉に
は何の制限も加えないことにした。それが写生の意味である。
ところが、写生という言葉に誤解が生じた。写真のように、見たものをそのまま描写しなけ
ればならないと主張する一派が生まれた。感情を含めないということであろう。
もともと、俳句や歌は人々の感性をうたうものであり、また、共感を誘うためのものであ
る。自然の情景をそのまま言葉にしても、無味乾燥となる。
俳句は文学である。それは美意識を表現するもの。したがって、美意識を持たない写生技法は
あり得ない。
文学としての美意識とは何か、それを求めるのが俳句を詠むときの第一歩である。
わかりやすい言葉で、人間の美しい姿を描き、たくさんの人たちの共感を誘うような俳句が詠
めれば、何も言うことはないが、そんなことは夢のまた夢だ。
(了) |
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