大化の改新




 今日の話は、日本古代史で、大化の改新と呼ばれる古代の政治改革について考え
てみます。

 大化の改新のきっかけとなる事件は、乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれます。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)
において、蘇我入鹿が暗殺されて、蘇我氏本宗家が滅亡したものです。

まず、この事件が起きた経緯について、お話しします。

 欽明天皇の血統を引く秦王一族は、舒明天皇系と山背大兄王系に分かれて、勢力
争いをしていました。秦王一族には、独自の軍事力がありませんので、相手を殺害
して、全面的に屈服させることはできません。

ところが、この内輪の争いに、大和政権の軍事力を握っていた蘇我入鹿が関与しま
した。入鹿は、親友でもありました舒明天皇の長男である古人大兄王を、天皇位に
就けたいと考えました。邪魔になったのは、山背大兄王の存在です。当時、秦王家
の第一人者でした。


 643年12月16日、入鹿は舒明天皇派の人たちとともに、巨勢徳多(こせの
とこた)、土師娑婆連(はじのさばのむらじ)の軍勢をさしむけて、山背大兄王の
住む斑鳩宮を攻撃しました。意表を突かれた山背は、前途を悲観して自殺しまし
た。

 こうして、秦王一族は舒明天皇派の人たちによって、一本化されました。すなわ
ち、軽皇子、中大兄皇子、大海人皇子、中臣鎌足です。次は、蘇我入鹿を暗殺し
て、蘇我氏の権力を奪い取ることです。この筋書きは、あらかじめ計画されていま
した。


 645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、書紀によりますと、三韓の貢
の儀式が行われたとき、入鹿を騙して殺害する計画が実行されました。中大兄皇子
が刀で切りつけ、部下二人の協力により、入鹿の首を刎ねました。ただし、この殺
害状況は創作です。

 その後の経過を見ますと、事実は次のようなものです。三韓の儀式はありませ
ん。入鹿が宮殿にいた時を狙って、襲撃しました。入鹿本人を殺害したのは、大海
人皇子です。殺害方法は、槍で刺し殺しました。


 なぜ、この状況だったのか、その理由をお話しします。政権を取ったのちのこと
です。天智天皇が律令を導入して、天皇として即位した頃、大海人皇子は政権から
締め出されました。

 大海人皇子は、これを恨みに思い、酒を飲んで酔ったような振りをしました。そ
して、天智の前に、一本の槍を突きたてました。天智は激怒し、二人は一触即発の
状態になりました。鎌足が仲に分け入り、その場は収まりました。


 大海人皇子は、今の政権があるのは誰のおかげなのかということを、天智に思い
知らせるものでした。天下を支配できるのは、自分が入鹿を暗殺したからです。だ
から、感謝すべきなのに、反対に、政治の場から追放された不満を、態度で表しま
した。


 大海人皇子は武芸に優れていたという記述もありますが、中大兄皇子には何も書
いていません。ですから、入鹿暗殺という大手柄は、大海人皇子のものです。

 なぜ、その大手柄を、中大兄皇子としたのでしょうか。それは、書紀が執筆され
た時代になりますと、仏教が盛んになり、天皇自身が直接殺人を犯すのは、ふさわ
しくないと考えられたためです。

 こうして、入鹿殺害犯は大海人皇子から中大兄皇子に差し替えられました。中大
兄皇子の息子が、壬申の乱で負けましたので、天智は悪い奴だという印象を持たせ
ようとしました。逆に、天武は正義の人になります。


 話を元に戻します。事件現場から自宅に逃げかえった古人大兄王の言葉が、書紀
に書かれています。

 韓人殺鞍作臣吾心痛矣
 (意訳)韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ。吾が心痛し。
 古来、この言葉は意味不明とされています。なぜかと言いますと、入鹿を殺害し
たのは、韓人とされているからです。韓人とは、朝鮮半島の出身者という意味で
す。どうして、そういう人が、入鹿を殺害したのか、おかしなことです。そのた
め、三韓の儀式のときに殺害されたと言われています。


 そもそも、中大兄皇子によって抹殺される立場の古人大兄王の言葉が、書紀とい
う公式文書に載っているのも、不思議です。これは書紀執筆者が、古人大兄王の口
を借りて、真実を後世に残そうとしたものです。

 本来であれば、削除し、後世には残せないものです。書紀を最終的にチェックし
た人物も、真実を知っていました。しかし、歴史家の使命として、後世に残さなけ
ればならないと考えて、そのままになりました。それは藤原不比等です。


 謎とされる韓人とは、大海人皇子のことです。彼は、斉明天皇の長男ですが、父
親は三韓の出身者でした。そのため、倭人ではなく、韓人と呼ばれていました。こ
の区分は、現在も同様で、二世までは外国人で、三世からは日本人と考えられま
す。

 入鹿暗殺に成功した後、軽皇子、大海人皇子、中大兄皇子は、法興寺に陣を構え
ました。寺には塀がありますので、防御の施設とみなされたためです。

 事件の翌日、645年7月11日、蘇我氏に協力する豪族はいなくなりました。
このため、病気していた蝦夷は自宅に火をつけて、自殺しました。


 7月12日(旧暦6月14日)、皇極天皇は退位されて、弟の孝徳天皇が即位し
たとなっています。混乱状態の中で、決まったものでしょう。新政権としては、国
内の反乱に注意したと思われます。

 皇太子は、中大兄皇子。阿倍内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣とな
りました。本宗家だけが滅亡し、他の豪族は新政権に協力しました。これは蘇我氏
の政治運営に、大きな反発があったためとみられます。


 蘇我氏が統治していた七世紀前半の政治情勢は、真実が残されていません。書紀
では、秦王家の役割を過大に描いています。ただ、中国王朝の真似をしていたこと
は確かですので、冠位十二階制による官僚機構も機能していて、実務は官人に任さ
れていました。

 蘇我氏本宗家が独裁者のように振る舞っていました。秦王家は共同統治者です
が、実務面からは排除されていました。いずれ、蘇我本宗家から攻撃されて、追放
されるという恐怖感がありました。こうした苦境に対して、危機感も渦巻いていま
した。


 他の豪族も同じような立場でした。したがって、蘇我氏本宗家が排除されたこと
で、大和政権は安堵した雰囲気に包まれました。こうして、混乱もなく、新政権は
受け入れられました。


 歴史的観点で言いますと、乙巳の変で蘇我氏が滅亡したことにより、秦王家に取
って代わる立場にいた豪族はいなくなりました。かつて、強大な勢力を誇りました
物部氏、大伴氏、平群氏、葛城氏などが消えました。これにより、古代から続く豪
族の中で、秦王家が権威の元締めとなる素地ができました。


 この頃の書紀の記述は、天武天皇以降の天皇制が確立したイメージを、そのま
ま、過去の時代に当て嵌めたものです。ですから、書紀に描かれた天皇や皇太子と
いう役職名はありません。

 実際は、天皇は秦王、あるいは倭王と呼ばれていました。皇太子は、大兄です。
まだ、律令はありません。


 新政権が発足してから、中国を真似た政策が実行されていきます。まず、年号の
制定です。皇極天皇4年を大化元年としました。

 旧暦9月になりますと、吉野で引退していた古人大兄が謀反を起こしたことにな
り、殺害されました。古人大兄は、舒明天皇の長男ですが、入鹿の親友でしたの
で、排除されました。

 現場に出向いたのは40人ということから、謀反ではなく、中大兄皇子の命令に
より、突然、攻撃されたものです。古人大兄と子供たち、妻が亡くなりました。


 ただし、ひとりだけ、生き残りました。倭姫王(やまとひめのおおきみ)という
女性です。この人は、天智天皇の皇后になっています。古人大兄が正統な天皇候補
者でしたので、その埋め合わせとして、その娘を形式的な皇后にしました。

 そして、斉明天皇が亡くなった後、天皇の役割である神道関係のことを、倭姫王
に任せました。ですから、皇后という立場になりました。称号からして、神に仕え
る女性という雰囲気があります。


 旧暦12月9日、孝徳は都を難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさきのみや)
に遷しました。これは朝鮮半島への出兵準備です。

 新政権の最大の使命は、欽明天皇の遺言である加羅国再建です。これをスローガ
ンにして、一致団結しました。そのために、山背大兄王を排除し、蘇我氏本宗家を
滅亡させました。朝鮮出兵は、最後の仕上げです。


 そのためには、早い段階で意思表示を示しておかなければなりません。入鹿を倒
してから半年後、都を難波に遷すという宣言をしました。

 この時は遷都を宣言しただけで、準備を始めたところです。遷都に関する記事
は、651年にもありますので、その頃、遷都が終了したと思われます。ただちに
朝鮮半島を攻撃するという戦略が立てられましたが、実際は、戦いの準備はできて
いません。


 新政権は、孝徳、大海人皇子、中大兄皇子の三人で、運営されました。朝鮮半島
への出兵に関して、孝徳は、天皇になってから、慎重派に変りました。それに対し
て、中大兄皇子は積極派です。大海人皇子は中立で、母親の意見に従うといったと
ころです。斉明は、積極派でした。

 こうして、孝徳天皇と中大兄皇太子は対立するようになります。孝徳は、国のト
ップに立ちましたので、朝鮮半島への出兵に反対しました。やはり、国を危うくす
る危険性が大きいということです。その判断は正しかったと思われます。


 大化5年(649年)に、左大臣阿倍内麻呂が病死しました。この直後に、右大
臣蘇我倉山田石川麻呂に対して、謀反の疑いがかけられます。これは、両大臣を邪
魔者扱いしていた中大兄皇太子の策略です。


 石川麻呂は弁明もできないまま、山田寺で自殺することになります。後日になり
まして、無実であることが明らかになります。この頃から、権力をまとめるため
に、中大兄皇太子の朝鮮半島への出兵論は強まります。


 大化の改新は、わが国が国家として出発するスタートラインのようなものでし
た。ここから、法律が整備されて、運営される国家になっていきました。

国家の出発点となりました実情を正確に知ることは大切だと思います。それでは、
今日の話は終わりにします。