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地域交流ステーション横浜歴史ファンサークル歴史好きの方、会員を募集しています。サークル規模は10人程度とします。日本の古代史を中心とします。あなたの参加をお待ちしています。連絡先 watanabeyuichiro@mirror.ocn.ne.jp活動拠点 横浜市金沢区片吹自治会館活動スタイル 講義と討論講師 渡邉雄蕉活動時間 毎月1回 90分受講料 1000円/回 他費用なし |
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今月のテーマ |
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信長・秀吉・家康の人物批評 |
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今日の話は、歴史上の人物について、人物批評をしてみたいと思います。 日本人なら、だれでも知っている、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人がいま す。この人たちは、戦国時代を終わらせて、平和な時代を築きましたので、英雄の扱い を受けています。 この三人がどのようなことをしたのか、それはいろいろな本に書かれています。た だ、どういう人間であったのか。それに関しては、あまり書いてありません。 ほとんどが、戦いに関することです。あるいは、社会に対して、どのようなことをし たのか、そういう客観的なことです。 信長は何を考えて、何を喜び、何を悲しんだのか、そういうことは書いてありませ ん。それは秀吉も、家康も同じです。 作家は、歴史的に有名な人物を取り上げて、小説を書きます。そして、自分なりの人 物像を創り上げます。それを読んだ人たちは、小説に描かれた人物を思い浮かべるよう になり、それが歴史上の人物であると錯覚します。 作家は、小説の主人公にするとき、好感度の良い人間にします。嫌悪感をもたれるよ うでは、本は売れなくなりますので、良い印象を持つ人間として設定します。それが真 実の姿であるとも、思えません。 司馬遼太郎という作家は、戦国時代から明治維新に至るまで、戦乱の時代を題材にし て、数多くの小説を書きました。この人の初期の作品は除きまして、ベストセラーにな ったものは、小説というより、随筆に近いものになりました。 おそらく、事実が八割、創作が二割程度だと思われますが、小説全体が歴史的事実で あるかのように見えてきます。たいへん上手に書かれていますので、全部が事実のよう に錯覚します。 主人公は全員善人です。悪人はいません。私は、こんなはずはないと考えています。 こういう見方をする司馬の人間観に、違和感を持ちました。 人間には様々な困難が降りかかります。それを乗り越えるために、要領よく処理しよ うとします。あえて、善人を貫いて、苦労を背負い込みたくはありません。失敗は避け ようと努力します。 司馬の作品で、一番古い人は空海、次は源義経、後は戦国時代、これはたくさん書い ています。新しいのは、明治維新から、日露戦争のことです。 昭和には、小説の主人公になる人物はいないということで、書いておりません。司馬 は兵士として、戦争に動員されていますので、当時の軍部に対しては批判的な意見を持 っていました。 米国との戦争を始めたこと、なかなかやめようとしなかったこと、厳しく批判してい ます。小説はありませんが、随筆のような形で、多くのことを述べています。 司馬が書かなかった人物としては、平清盛、源頼朝、足利尊氏などがいます。これら の人物は、人間性に問題がありますので、避けたと思われます。 次に、織田信長について考えてみます。まず、信長は残酷だと言われています。これ は本当でしょうか。私は、信長が、他の戦国武将と比べて、特別残酷な人間だとは考え ていません。 信長、秀吉、家康の三人の性格を詠んだ句があります。信長は、鳴かぬなら殺してし まえホトトギス、秀吉は、鳴かぬなら鳴かせてみしょうホトトギス、家康は、鳴かぬな ら鳴くまで待とうホトトギス、となります。 この性格分析は、後世の人が三人の実績を考えて、つくられたもので、正確なもので はありません。 信長は、なぜ、残忍だとされているのでしょうか。その理由として、比叡山延暦寺の 焼き討ちがあります。山裾から火をつけて、全山を焼きました。僧兵や一般人もたくさ ん逃げだしたということですが、その人々を皆殺しにしたと言われています。 当時の大寺院は武装していました。荘園を持ち、僧兵も抱え込んでいて、大名と同じ ような権力基盤を築いていました。 信長とすれば、他の戦国大名を攻撃するのと、同じです。ですから、お寺を攻撃した という見方は誤りです。延暦寺の武装解除をしまして、普通の寺院にしたことになりま す。 信長の要求を素直に受け入れれば、攻撃されることはありません。延暦寺は、自分の 利益を優先させまして、信長と敵対したために攻撃されました。当時の情勢を考えれ ば、多くの人が殺害されたとしても、やむを得ないことです。 もうひとつ、信長の残虐性として、一向宗に対する皆殺しという戦い方が批判されま す。一向宗は鎌倉時代に、浄土宗の僧侶である一向俊聖が始めました。『仏説無量寿 経』に「一向専念無量寿仏」と書かれていまして、阿弥陀仏の名号を称えることが中心 です。 長島一向一揆(ながしまいっこういっき)と呼ばれる戦いで、一揆勢は約十万人の勢 力でした。これに対して、織田軍は三度の攻撃で、約三万人を殺害しました。 信長が美濃を平定したとき、負けた斎藤龍興も、長嶋に逃げ込んで、再び、信長と戦 っています。このように、戦いの敗者は、また敵になります。したがって、これをやめ させるためには、殺害するしかありません。それが戦国時代の決着の仕方です。 これをやらなければ、戦いはなくなりません。ですから、敵を殺害したから、残虐と いう批判は幼稚です。物事の真実を理解していません。 いつの戦いでも、敵を殲滅させているわけではありません。領地争いの場合は、戦い の決着が付けば、農民はそのままです。もしも、農民を殺害すれば、耕作する人がいな くなり、支配する意味がなくなります。 一向宗の信者は、死んだら、極楽に行けるということで、死ぬまで戦うというもので した。こういう人たちを敵にした場合、戦いを終わらせるためには殺害するしかありま せん。 信長は、大阪から宗教勢力を排除しようとして、たいへん苦労したのが、石山本願寺 との戦いです。1580年、約十年にもわたった戦いは、和睦という形で決着しまし た。信長は軍事力で勝てませんでした。 これは信長包囲網として、石山本願寺に協力する戦国大名がいたためです。宗教が絡 みますと、なかなか決着しません。これ以上、関わっていますと、全国制覇にも重大な 影響が出ますので、とにかく、政治状況を変えました。 数万人も殺害したから、残忍という批判は的外れです。戦いを終わらせるためには、 戦う人をなくさなければなりません。これが戦国時代を終わらせるためには必要です。 信長は兵農分離を徹底した最初の戦国大名です。もともと、武士は、農地の管理人で すから、自分の領地を持っていました。兵士も、戦いのないときは、農民でした。です から、戦いは農閑期に行います。忙しいときは、戦いに行けません。 この典型的な例が、武田信玄と上杉謙信との戦いです。 両者は何回も戦いましたが、決着はつきませんでした。つまり、農閑期だけでは、決 着を避けることもできます。それで、戦いが長引くことになります。 それに対して、戦うことを職業にした信長勢は、一年中戦うことができます。これに より、戦いでは、決着をつけることができます。 さらに、所領は信長の命令で、代わることがあります。いわゆる転勤です。大名であ っても、土地を所有しているわけではありません。税を徴収する支配地を与えられてい るだけです。これは武士の概念を変えてしまいました。現代風にいいますと、サラリー マン化したわけです。 また、楽市・楽座というものを始めました。これは商業活動を自由にしたものです。 それまでは、何の商売でも、元締めというものがありまして、これに許可をもらう必要 がありました。つまり、上納金を払わなければ、商売ができないということです。 楽市・楽座は、六角氏、北条氏、今川氏でも行われました。しかし、信長の支配地が 日本の中央で拡大したため、その恩恵に浴した人は増えまして、楽市・楽座を推し進め たのは信長ということになりました。 この場合、商業活動からも、税を徴収します。活発になれば、税も増えまして、戦う ときの資金になります。そうすれば、いろいろな土木工事、建築工事も行えるようにな ります。こうして、社会が発展します。 秀吉の時代も同じようなものでしたが、徳川家康の時代は大きく異なります。税を徴 収するのは、農民だけで、商人からはとりません。 農民は五公五民ということで、生産高の半分を徴収されました。ひどい場合は、六公 四民で、農民の手元には四割しか残りません。 それに対して、商人はいくら儲けても、税を払う必要がありません。ただし、江戸時 代も、後半になりますと、商人から、税をとるようになります。 なぜ、こんなことになったのでしょうか。それは儒教の影響によるものです。 商業活動の基本は、物を運搬し、仕入れ値と売値との差額で利益を出すものです。江戸 幕府は、これを適正な商売とは認めませんでした。これは泥棒と同じようなものだと主 張しました。商業活動を蔑みました。 ですから、税を徴収すれば、泥棒行為を認めてしまうことになります。だから、税は 徴収しないという理屈になります。 江戸時代は、お米の所有高によって、身分が決まりました。一万石以上の生産高があ れば、大名といいます。一万石以下は、旗本、さらに少なければ、御家人といいます。 次に、秀吉に移ります。秀吉はみんなから好かれる性格であったと言われています。 信長の家来として、一番下の地位から出世していきました。何事も熱心で、知恵もあ り、創意工夫も、努力もしました。それは間違いないでしょう。 当時の武士は、ほとんど何もしゃべりません。無駄なことは言いません。ひたすら、 武芸に励みまして、戦いに勝つことを考えていました。でも、自分はしゃべらなくて も、秀吉の話は気に入っていたようです。秀吉は、人たらしといわれていました。誰で も好きになるということです。作り話でしょうけど、源頼朝の木像にまで、話しかけた ことになっています。みんなを自分の味方にしてしまいます。 信長が亡くなった後の山崎の戦いで、秀吉勢は本体二万人に加勢が二万人、計四万人 でした。これに対して、明智勢は地元を出発したときの一万六千人で、加勢はありませ ん。人が集まるのも、秀吉の人望です。 本来、光秀は近畿一円の武士を動員する権限を持っていたわけですから、人から好か れれば、応援してくれるはずです。しかし、みんなからそっぽを向かれましたので、信 頼されていません。 ところが、天下を取った後の秀吉は、独裁者となりました。好き勝手にやったおかげ で、豊臣家を滅亡に導きました。たとえば、自分の後継者である秀次を抹殺しました。 これでは長続きするはずもありません。こういう勝手気ままな性格は、教養がない人間 特有のものです。 秀吉は、信長というタガが外れますと、もうバラバラになり、手が付けられません。 自己規律ができていません。つまり、精神が磨かれていません。 信長という主人がいたときは、認められたいという一心で、すべての行為が抑圧され て、主人の好意を得られるように努力しました。 ですから、人間的には、貧しい心の持ち主です。褒められるような人物ではありませ ん。信長存命中は、ごまを擦っただけで、信長亡き後は、人たらしがうまくいっただけ です。 自分の子供に後を継がせるというお粗末な考え方しか、知らない人物です。後継者の ことについて、知恵のある対策は何もやっていません。 身内に対して厳しいのは、品性がありません。百姓のような社会では、協力するより も、争いが激しいのが普通です。つまり、身内同士で争うことです。これでは人間がで きていません。信長であれば、秀次のような後継者を殺すことはしませんね。 次に、家康ですが、長生きをして、天下をとりました。最終的には、秀頼を殺害し、 豊臣家を滅亡させました。この場合の豊臣家は、徳川の世に不要なものの旗印でした。 江戸幕府は多くの大名を取り潰しましたので、いわゆる浪人というものは全国にいま した。その人たちは、再び、天下が乱れれば、活躍できると考えました。徳川の世が安 泰であれば、武士は廃業し、他の商売をやるしかありません。 こういう時、徳川としては、天下を安定させるために、浪人を始末しなければなりま せん。そのとき、豊臣家もろとも、抹殺してしまうのが、一番手っ取り早い方法です。 家康は、それを決断しました。不要な浪人を整理するのに、豊臣家との戦いは好都合で した。 秀頼は浪人者を集める旗印として、最適の存在でした。集めた浪人者を始末すれば、 徳川の政権は安定します。そうすれば、武力を使って、幕府に刃向かってくるものはい なくなります。 こういう見方をしますと、家康は残忍です。長生きをして、知恵のある人たちから、 世の中を安定させる方法を学びました。そして、徳川の世を長続きさせようとしまし た。秀頼を全滅させたのは、老人の悪知恵です。 信長、秀吉、家康は戦国時代を生き抜いてきた人ですから、いろいろな場面で、様々 な工夫をして、天下人になりました。ですから、複雑な人間性を持っていましたので、 作家も、様々な人物像を描くことができます。 三人の本当の姿は分かりません。三人は時代に縛られていました。すでに、現代人 は、当時の社会環境とか、常識とか、それが分かりません。 ただ、三人は天下人になりましたので、成功した人たちです。ですから、後世の我々 は、何らかのことを学べると思います。 天下人は、その時代のリーダーです。こういう人は、何らかの魅力を持っています。 周囲の人を惹きつけるだけのものを持っていました。ただし、それが現代人に理解でき るかどうか、それは分かりません。 何の魅力もない人間は、いつの時代にあっても、リーダーになれません。それだけは 確かです。したがって、その魅力を身に付けることが大切です。 才能で見れば、一位信長、二位秀吉、三位家康になります。天下取りで、この三人の 順番は、必然的なものだったかもしれません。 家康、秀吉、信長という序列にはならないと思います。この時代の人物を論じるとき に、善悪は関係ありません。 どうもありがとうございました。 |
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